20

感傷に浸ってるだけと言われたらそうなのかもしれない。いつも想像力がなくて、自分の身に起きたことでしか表現できない。なにより私の写真はとても弱かった。誰かに届けようとも思ってないその写真はどこまでもひとりよがりで、どこまでも孤独だった。本当に理解されないんだなと実感した。一度もっとよせたものを作ろうと思ったけれど、どうしてもできない。できたとしてもそれはただの真似事にすぎない。いったい私は誰に手を伸ばして、どこまで潜ればいいのだろうか。

19

6年前のことを思い出した。

何もかもが嫌で、街に出れば鏡に映る自分の姿を見る度嫌になり、真っ暗な部屋に帰ればひとり声を出して泣いた。

何もなかった。何も。自分が嫌になるくらい、誰もいなかった。誰も思い浮かばなかった。

 

そんな時にラジオではじめて聴いたのがサカナクションの「グッドバイ」だった。

ラジオの向こうで泣いてるのがわかった。

私も泣いた。

 

この曲を聴いて私はひとりでも立ち上がろうと思えた。そしてこの世界から別れる決心をした。

 

この6年間で私は何度も変わろうと思ったし、何度も変われないと泣いた。

それでもこの曲だけはずっと私の指針になっていた。

一郎さんが連れて行ってくれたはじめてのNFで私ははじめて私を見つけることができた。

鏡に映る私は私の知ってる私だった。

その日の最後にグッドバイを全員で歌ってたら自然と涙がこぼれた。

 

今も私の答えは見つからない。

それでもあの日の決別は間違っていなかったと思う。

深いところに潜って見えた光のような

たとえそれが評価されなくても

誰にも理解されなくても

ここで生きる意味がわからなくても

私はここで捜し求めて歩いていきたい

18

平成元年2月に私は産まれた。

予定日を過ぎても産まれてこなかったため、陣痛を起こす薬を使うことになった。

双子だった私はもうひとりよりも先に産まれたのでお姉ちゃんになった。

母は名前をつけるとき平成元年生まれだから平成の文字を入れようと思った。しかし平の方が平子しか思い浮かばず、さすがにかわいそうと思い平子はやめて、後に産まれた妹は平成とは関係なく好美(このみ)と名付けられた。

 

私の名前はたいして珍しくもないので、学年に必ずひとりは同じ名前の子がいた。その子たちはその名前がとても似合っていて、いいなあ、うらやましいな、なんて思ったこともあった。

私は滑舌が悪いので、自分の名前がうまく言えず、よく間違えられることもあった。だからなのか自分のことを名前で言うこともなかったし、自分の名前に自信が持てなかった。

SNSをやるときも自分の名前があまり好きではなかったので、ずっとウソの名前でやった。はじめてつけた名前は「きさ」で漫画のフルーツバスケットに出てくるキャラクターからとった。理由は響きがきれいだと思ったから。それから「キキ」とか「はな」とか自分の名前とは全く違う名前をつけていた。

22歳のときに当時やってたブログの名前を「はな」から「ハル」に変えた。そこからずっと同じ名前です。

 

写真の活動をするようになったときに「ハル」では同じ名前の人が多すぎて、これでは見つけてもらえないと思った。でも名前をかえるのも嫌だったので、名字をつけようと思ったが、なかなか思いつかない。その時私の名前は名字としても存在してることを思い出して、合わせてみると、意外としっくりしたので、これにしようと決めました。

最初はアルファベット表記にしてたけれど、それでは外国人と思われることが増えたので、漢字を考えることに。本名の「美」というのだけ、名字にするとバランスが悪かったので、「海」に変えました。

ハルはいろいろ考えたけれど「春」が一番似合ってたのでそれにしました。

こうしてできた私の中のもうひとりの私の名前は自分でつけました。けれど一文字だけは自分の本当の名前を使いました。

それは母が平成元年生まれだからという今思えばとても安易な理由だと思ったけれど、私は母が妹ではなく、私にその名前をくれたのがうれしかったです。

平成が終わるとなったときはじめて平成の由来を知り、私はなんて素晴らしい名前をもらったんだろうと思った。

平成が終わるとなり、テレビでは様々な平成にあった出来事や音楽が取り上げられた。人によってはきっと人生の一部や大半だったりするであろうが、私にとっては平成は私の人生全てだと言える。

私に名前をくれた平成、今まで本当にありがとう。

そして私に名前をつけてくれた母に感謝します。今はこの名前とも少しだけ向き合えるようになりました。

 

そういえば学校で自分の名前の由来をクラス全員の前で発表する授業があって。私は自分の名前を黒板に書いてこう言ったのを覚えてる。

「私の名前の由来は平成元年に生まれたので、平成の成をとって成美と名付けられました。」

 

 

 

17

駅までの帰り道、車の中で慌てて除光液で爪の青色を落とした。

 

3月で上京して8年が経った。22歳だった私も気付けば30歳になった。

 

あの頃言われた母の「いつでも帰っておいで」は私にとってはお守りみたいな言葉で、でも自分の中では「今さら後には引けません」という気持ちが大きかった。

何もない地元だったけど、離れて昔よりも好きになれた私の故郷。

たまに帰ればご馳走というくらい私の好きな物ばかり食卓に並ぶのがうれしかった。

でも胸を張って帰ると言っていたのに、どんどん逃げるように帰るようになって、いつも電車の中で泣いていた。着いた頃には泣き止んで何事もなかったかのように明るく振る舞う。自分のこともどんどん話さなくなった。

 

それから帰るのが嫌になってしまった。年末年始に帰らない年もあった。どうしても自分の居場所がないように思えて辛かった。

確かその時は自分の部屋が一度なくなった時で。今はあるけど私がいた頃にあった本や漫画も机もなくて、引き出しの中身も変わっていて、自分がここにいた証がないなと感じて。

それでも20代の頃はまだ東京で頑張れると思ったし、地元の子にも帰ってきなよとは言われなかった。

あっという間に時間が経って私は20代ではなくなってしまった。地元に帰れば必ずと言っていいほど結婚や出産の話になる。年齢を考えれば当然なのだけど、私は正直そんな話はしたくなかった。私は婚活パーティーも街コンもマッチングアプリもしたことがなくて、合コンみたいなのは20代前半に2回くらい参加しただけ。その時初対面の人が勝手に携帯を見てきたのが信じられなくて、それからは全く参加してない。

久しぶりに初対面の異性と話したときに何も話題が思いつかず、仕事の話になったときはとても人前で言えるような仕事ではなかったので話題を変えた。おもしろい話もできず、おもしろくもない話で笑っては、気を使うこともできず、私はどうしてここにいるんだろうという気持ちになった。

履きなれないヒールは痛かった。

 

母やおばあちゃんには本当に申し訳ないと思う。ふたりからの早く帰っておいでには応えるべきだと思うし、それでも帰らない私はただの親不孝者だと思った。

それができないのは私が今でも大人になれてなくて、東京で現実を見ないで夢を見てるからだなんて言えないし、きっと誰にもわかってもらえない。あんなに大好きだった地元に帰るたび、みんなにはやく帰ってきなよと言われて私は辛かった。そう言わせてるのは私なんだけど、本当は東京でがんばってるねと言われたかった。

でも私には言い返せるほどのものが何もないから、どうすればいいのかわからなくなっては、はやくあの狭い東京の部屋に帰りたいと思ってしまう。

結婚なんていらない、子供がほしいなんて思わない。家族が私には眩しくて、誰もが持ってる身近な幸せが私にはとても遠い夢みたいだ。

16

中学生の頃、数学の先生が少し変わった先生で数学の授業中なのに全然関係ない話をして、それについてみんなで意見を出し合ったりすることがたまにあった。(例えばA子さんはB子さんに頼まれて授業中手紙をまわしてたら、それが先生にバレてA子さんが怒られて、この場合悪いのは誰?みたいな。ちなみにこれは先生の実体験の話。)

その授業で一番大きいテーマだったのが「人は何のために生まれてきたのか」というものだった。いろんな人が意見を出したけど、全部先生は否定をした。最後まで答えはでなくてその解答を宿題のノートに書いて提出するようにとなった。クラスのみんなが何を書いたのか知らないままだったけど、私には数学より簡単な問題だったから迷うことなく答えを書いた。

しかしそのノートを休み時間友達に勝手に見られたとき、散々からかわれて、大笑いされたのを今でも覚えてる。「かっこいいこと書いてるね〜〜〜!!!!!!」と友達3人くらいに笑いながら言われた。

当時の私はそういうのを真面目に書くような人だと友達には思われてなかったのだと思う。その場をどうしたのかあまり覚えてないけど、おそらく作り笑いでもしたんだと思う。卒業までその子たちとは仲も良かったけれど、今はもうなにひとつ繋がりがない。

 

高校生の時、音楽をちゃんと聴くようになってからひとりて歌詞を書いたりするようになった。と言っても誰に言うわけでもなく、デタラメなメロディをつけてなんとなく口ずさむ程度。

そんな中友達が組んでたバンドで1人の子が歌詞を書いてきたと言って、それをみんなに見せていた。いかにも切ないといった言葉やありきたりな言葉が並べられたその歌詞は何も響かなかったけど、誰もその子の歌詞を笑ったりしなかった。みんなすごくいいよ、泣けるとか言いながら褒めていた。もちろん誰も泣いてなんかいなかった。

その時思ったのは笑われたのは私の言葉じゃなくて私自身なんだろうなと思った。だからもう誰の前でも本当のことは言わないし、書かない、そう思った。

SNSが普及してきた頃、ばかにされるのが怖くて本心はどこにも書かないでいた。でもそしたらどんどん自分を偽っているのが苦しくなって、ある時思いきって本当のことを書いてみた。人の反応が怖かったけれど誰も笑わなかった。むしろ共感してくれたり、優しい言葉をかけてくれる人までいた。

うれしかった。個展でも私の言葉や文章も好きですと言ってくれる人がいて。本当にありがとうございます。

中学生の私を救うことはできないけれど、今は泣きたいときに泣いてます。ただ、まだ作り笑いはしてしまうけど、偽らずにいれる場所は見つけました。

中学生の私が出した答えが合ってたのかは覚えてませんが、ノートにはこう書いてました。

「人は生きるために生まれてきたのだと思います。」

 

15

人から言われる「絶対」という言葉を信じることができない

「絶対」という言葉が嫌いというわけではない

むしろ私は私自身に絶対という言葉をよく使う

小学生の頃「絶対に誰かに言わないでね」といわれた約束を私は大人になるまで守っていたら、「まだ守ってたの?」なんて言われてしまうほど、私の中での「絶対」は「絶対」だった

絶対○○するね、絶対○○○します、なんて言われた日にはそれをずっと信じていた

でもそんなものは本当は存在しなくて、あっけなくなくなるものだと知った

だから絶対なんて言ってほしくない

「いつか」がいい

「いつか」ならいつなのかわからないし、たとえ来なくても哀しくなんてならない

私はいくつになっても人を信じられない弱い人間だから、こんなことしか言えない

 

2011年3月、22歳のときに上京した。

3月11日

私は地元の花屋で働いていた。水切りをしてる最中、突如目眩のようなものが襲い、倒れそうなったが、バケツの水面が揺れているのに気付き、目眩ではないことがわかった。

 

地元の花屋で2年働き、奨学金を全額返済し、上京資金を貯めた。特になりたいものがあったわけでも、夢があったわけでもない。ほとんど妹の付き添いで、私はただ私のことを知らないどこか遠くに行きたかっただけなのかもしれない。

震災の2週間後に引っ越しを控えてた。母にやめてもいいんだよと言われたけど私の中にやめるという選択肢はなかった。

 

忘れることはない。これから先もずっと。

 

「君を思って祈る」