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実家の物置にはスケッチブックとたくさんのノートがあった。そこには下手クソな漫画がたくさん描いてあった。

幼稚園の頃から外で遊ぶよりお絵かきが好きだった。小学生になると友達の真似をして、少女漫画を描くようになった。休み時間は外で遊ばず、絵を描く。授業中も教科書の隅に絵を描く。放課後は友達の家に集まって、みんなでテーマを決めて絵を描く時間が好きだった。だけど、図工の絵は苦手だったし、先生に何度も漫画じゃない絵で描いてと言われた。

中学にあがると運動音痴な私は部活に迷った。吹奏楽部を体験入部したものの、音が出せたのはフルートだけだった。陰気だとわかっていたけど、やっぱり絵を描くことの方が好きだったので美術部に入った。そこで私は衝撃をうけた。いっしょに入部した隣のクラスの子の絵が驚くほどにうまかった。もちろん小学生の頃の友達にもうまい子は何人かいた。でもその子たちよりも圧倒的にうまいことは私でもわかった。私はただ絵を描き続けた。

3年生になると部活動はどんどん真面目に活動しなくなり、いっしょに入部した友達2人は来なくなった。私はスケッチブックに絵を描いた。それしか上手くなる方法を知らなかった。それから来なくなった友達がまた部活に顔を出すようになった。理由は私のスケッチブックだった。どうやら私のスケッチブックを見たらしく、まずそこに怒りたかったが、「こんなに真面目に描いてるなら、うちらもがんばらないとって思った」と言われた。口で何度言っても伝わらなかったことが、私の下手クソな絵一枚で解決した。

中学3年間で絵はうまくなっても、あのうまい子に追いつくことはなかった。それでも2年生の選択美術で描いた絵が初めて作品展に選ばれて、学校の廊下にも飾られた時はうれしかったし、中学最後の通信簿で最初で最後の5の評価が美術だったことが私にはとてもうれしかった。

小学生の頃の夢は漫画家だった。だけど私は一度も漫画を完成させることも投稿することもできずに終わった。ただひっそりネットのお絵かき掲示板に投稿するだけだった。

高校に入っても入部できそうな部活がやはりなく、また美術部に入る。選択の授業も美術にした。それしかなかった。そこでも私はまた衝撃をうける。圧倒的に絵がうまい子が2人いて、1人は同じクラスの友達、もう1人は隣のクラスの子で後に友達になる子だった。

部活は3年の先輩が卒業した後は、幽霊部員の先輩がいるだけだったので、自分たちで好き放題に活動した。後にあの絵がうまい私の友達も入部した。部活動の中で絵はほとんど描いていない。高校では本気で絵を描いてる方が恥ずかしかったので、とにかくふざけて描くようにしていた。校内ポスターの手伝いをした時もギャグ絵ばかり描いていた。

夏になると県の特産物を絵とグラフで表すという、よくわからないコンクールに絵を出さなければいけず。同じ部の友達たちに比べて私は描くペースが遅いので、夏休みは誰もいない美術室でよく作業していた。それでも最後は提出日の朝から放課後も作業して、なんとか完成させた。部内では私が最後だった。

そのコンクールの結果が金賞だったこと。部内で一番上の賞だったこと。あの絵のうまい友達は銀賞でなぜか私が金賞だったのは、選んだ特産物のおかげがほとんどだったけど、それでもうれしかった。

この時初めて校内の集会で表彰された。いつも壇上に上がる人をたいして見ていなかったから、きっと私が壇上に上がっても誰も見てないとわかっても、それでもうれしかった。

高校を卒業すると絵はほとんど描かなくなった。描きかけのスケッチブックと描きかけのノートだけがそのままになっていた。

それから何年も経って実家に帰ったとき、自分の部屋に見覚えのないクリアファイルがたくさんあった。中を見てみると、そこにはたくさんの落書きがきれいに保管されていた。

学生の頃、家で裏紙を見つけてはそこに絵をよく描いていて。スケッチブックに描くのに比べたら、落書きレベルの絵がそこにはあった。それは母が保管していたものだった。

私の買った漫画誌はほとんど捨てたのに、娘のこんな落書きをとっといてどうするんだと思った。なにひとつ価値のない落書きだった。でもそれを私も捨てることはできなかった。

最近になってまた絵を描くようになった。

相変わらず描くのも遅いし、たいしてうまくもない。それでも母は私の絵を見て「天才じゃ」と言う。

今もよく聞かれることがある。

「なんで描いてるの?」と。

それはきっと

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2年前の冬にもう一度展示をしようと妹と決めた。次の年だと準備も間に合わないから、2年後の春にやることにした。

タイトルは「私生活」

 

けれど1年前突如現れたコロナウイルスによって、私たちの生活はどんどん制限されていった。普通が普通ではなくなり、普通でないことが普通となった。テレビでは「新しい日常」という言葉が当たり前のように使われていた。日常なのに新しいという言葉がついているのが違和感でしかなかった。

それでも時間が経てば少しずつ制限は軽減されていった。だけど冬になると感染者はどんどん増えていく。そしてとうとう春の感染者数をあっという間に超えて最高記録を出した。

年が明けても状況はほとんど変わらず。春になったら今より良くなるという確証はなかった。緊急事態宣言が再び出されもう無理だと感じて展示を延期にした。もちろんやることは可能と言えば可能だったけれど、そこまでして今やるものかと言われたら違う気がした。今やっても誰も来ないだろうと思った。

 

延期にしようと決めたのはコロナだからと言えばそうなのだが、理由はそれ以外にもあった。私自身がほとんど写真を撮らなくなっていた。カメラの中には秋に入れたであろうフィルムがまだ入っている。

 

今年の3月で上京して10年が経つ。その節目という意味でも展示は上京した3月にしようと決めていた。

上京してからは地元にいた頃よりひとりの時間が増えて、知らない街にもたくさん行った。笑ったことも泣いたこともたくさんあった。そんな中で生まれたわたしの生活。

けれどそれも今では私のものではなくなってしまった気がした。制限される生活、自粛する生活、それはわたしの「私生活」ではなかった。途端に自分の中の大事なものさえもわからなくなり、何を残せばいいのか、何を撮ればいいのかわからなかった。

こんな気持ちのまま展示をやることはできなかった。今までも何度か撮れなくなることはあったけれど、今までのものとは違うことはわかっていた。いつまた撮れるようになるのかもわからなかったし、もしかしたらもう撮れないかもしれない。それでも「いつか」その時がきたらもう一度展示をやろうと思った。

もう誰かを追いかけることも夢もなくなって、日常すらもわからなくなってしまったけれど、春が来たら桜は咲く。夏はきっと暑いだろうし、秋は君の好きな季節だ。だからきっと大丈夫。

私はまたきみに会える日を信じてる。

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今年読んだ「光の指に触れよ」の中でとても残ってる言葉がある。

「きみは何が好きなんだ?何に夢中になってるんだ?」と森介に聞かれた明日子は「絶対のもの」と答える。

「神様みたいで、でももっと冷たくて、硬くて、どうやっても近づけない。遠くの方で光っている。夜の空が曇って月の明かりもなくて暗くて、雲の隙き間からたった一つしか星が見えない時の、その星みたいなの。絶対のもの。」

この言葉がとても好きで何度も読み返した。なぜなら私の中にも「絶対のもの」があったからうれしかったし、この絶対のものがあればきっと大丈夫だと思ってた。

だけどある時、私の中の「絶対のもの」がどんどん絶対ではなくなっていることに気付いた。この感覚は以前にもあった。10代のころ、2年くらい片想いした人がいて、その頃私の中ではその人が絶対のものだった。だけどそれは少しずつ色褪せていき、白でも黒でもなくなって、透明になった。何も思わないし、何も感じなくなってしまった。でもその時はそうなっても大丈夫だった。なぜかはわからない。

ただその絶対のものを失くした後の日々は何も思い出せないくらいそこには何も残っていなかった。どうやって生きていたのか。誰かのために、何かのためにやったことはなかった。何もなかった。

だからなのか今は絶対のものを失うことがとてもこわい。どうにかして繋ぎとめたいのに、今まで無意識に繋いでいたからどうすればいいのかもわからない。

人から絶対をもらったこともあった。単純な私はすぐにその言葉を信じる。それなのにその絶対はあっけなく消えてゆく。それに気付いたとき、もう誰かからの絶対を信じることができなかった。

それでも自分の中にある絶対だけは信じることができる。そしてそれは私だけのものだと思ってる。

だから私は私に「絶対」という言葉を使う。大丈夫。と私は私に伝える。たとえひとりになってもかまわない。私には絶対がまだここにある。

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以前の職場は休みがとりやすくて、少しでも写真の仕事ができたらと思って選んだ。そこに勤めた3年半で展示を3回できたから休みはとりやすかった。ただ写真の仕事をしたことはなかった。そのうち働く時間が増えていった。先輩たちがどんどんやめていく中、私はどうしてここで働いているんだろうと思うようになった。仕事を変えるのは面倒だった。怒られることもなくなったし、怒る人もいなくなった。でも私はここにいてもきっと何も変わらない。そして私はどうしても3年以上同じところに留まることができない。何かの拍子であっという間に切れる。

後先考えずにやめたものだから、転職活動は難航した。それでも今の職場は自分で選んだ。だけどまた間違えてしまった。予定より2ヶ月遅れた初出勤の日に私は泣きながら帰った。怒られたわけでも、怒鳴られたわけでもない。こんなはずじゃなかったのにと泣いた。どんなに嫌な仕事でも一年は続けることをずっとやってきた。だけどあと一年は遠すぎて何も見えなかった。勇気を振り絞って9月でやめたいと言ったのに、次が決まるまではここにいてほしいと言われる。どうしていつもやめたいと言っても受け入れてもらえないんだろう。それでも言えたことで少しだけ希望が見えた。それなのに同期がひとり今月末でやめることになった。私はどうなるんだろう。怖くて何も聞かなかったけど、私はここにいたくない。自分に何も残ってないからどこにも行けないし、誰も信じてないからどこにも帰れない。

前職をやめると決めたときに以前お世話になった上司に話したら次の職は決めたのかと聞かれた。私がまだ決めてないと言うと冗談まじりにあれをやりなよ、これをやりなよと言ってきて。私がどれも「嫌ですよ」と答えると最後に「じゃあ写真やりなよ」と言ったときは本当に驚いた。写真をやってることは前職では隠してたし、一度だけ長期休暇の理由を聞かれて答えたことがあったくらいで自分から言ったことはなかった。私は「やりませんよ」と笑いながら答えた後に冗談でも言ってくれたのがうれしかったことに気付いて「ああ、私は写真がやりたかったんだ」とわかっても結局最初に戻っただけで何も進んでないことに気付いてまたかなしくなった。私はもう私をやめたい。

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写真を撮りはじめた頃人は撮らず、目の前の風景や花ばかり撮っていた。撮るときは決まってひとりだった。

 

ある頃から人の写真も撮るようになる。きっかけは他人の撮った写真を見て私だって撮れると思ったから。私は人を撮るとき決して距離を縮めない。たとえ仲の良い子であっても一定の距離でしか撮ることができない。そして見ず知らずの人を撮ることはできない。ファインダーを覗いてもその人のことをなにひとつわかることはできない。

小さい頃から空気みたいに存在感がなく、ただ立ってただけで驚かれたものだ。私は写真を撮るとき空気になる。どうか私には気付かないでほしいと思いながら、シャッターをきる。その人がひとりの時にするであろう表情が好きだ。もちろんカメラ目線の写真も撮るし、そういう写真も嫌いではない。でも私はどこかさみしくてかなしい写真ばかり撮る。

いつかの夢の中で「かなしみの中に立ってるような写真を撮ってほしい」と言われてうれしかったのを覚えてる。その写真を撮る前に目が覚めてしまったけれど私はうれしくて涙が出た。

誰にも会わない日々が続いても私はいつも自分から会いに行かない。そしていつも会わない方を選んでしまう。その結果私の周りには人がいないし、私もそれでいいと思ってる。あまりにもひとりの時間が多かったせいか、それに慣れてしまった。人を撮るときは向き合って撮るべきだと思う。でも私にはそれができない。たとえ仲の良い子であっても私はその子の全部を知らない。そう思うと不安になってしまう。もう二度と会うことはないだろうと思う。

最近はずっと風景や花の写真を撮っている。私が誰かの瞳に映ることはないと思うと少しだけ安心する。もう人を撮らなくてもいいのかもしれない。

 

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不安な日々を過ごしてる最中、一子さんが3月に書き溜めた日記をZINEにして販売するとなり、うれしい気持ちというより安定剤を求めるような気持ちで購入。コンコ堂さんの通販で購入しようと思ってたところ、あっという間に完売してしまい、慌てて在庫のあるオンラインショップを探し、京都のメリーゴーランドという本屋さんから購入。数日後、「本が日々の彩りになりますように!」というメモといっしょにZINEが届く。さらにメリーゴーランド新聞という手書きのお便りもついており、捨てることができなかった。作中にもこの本屋さんが出てきたこともあり、京都に行く際にはぜひお邪魔したい。3月というと私にとっては3年半勤めた職場の最後の1ヶ月であり、仕事の引き継ぎから新人の教育に追われた日々だった。3月前半の頃はさほどコロナのことは気にせず過ごしていたし、私も深く考えていなかった。だが3月後半になるとあっという間に状況は変わった。職場の子たちとしていたご飯の約束に「本当に集まるの?」という子もいたし、「行けなくなりました」と当日になって断る子もいた。当然だと思うし、私から集まるのはやめようとも言い出せず、結果少人数でほんの少しの時間集まることにした。それでもやはり後ろめたさはあり、複雑な気持ちのまま仕事を終えた。自粛という言葉にもSNSにも疲れ、いつまで続くかもわからない生活に不安も尽きない。本当なら仕事を終えた4月頭に岐阜に行く予定だった。今年のはじめ4年ぶりにあった友人から、仕事で使う写真を撮ってほしいと依頼された。私としてはそんなこと初めてだったのでその話を聞いたときはとてもうれしく快く引き受けた。日程のギリギリまで迷ったが、やはり東京の感染者数が増えたのきっかけに延期にしてもらうことにした。必ずやるとは伝えたものの本当にできる日が来るのかもわからない。4月新しい仕事が決まったが自宅待機。実質無職に変わりない。何かできることはないかとスーパーの面接にも行ったが、長期できないということもあり不採用となった。最近はこんな日々に諦め、この生活にも飽きてしまうようにもなった。昨年ABFで購入した一子さんのZINEをまだ読んでいなかったので、これを機に読むと昨年の4月の日記が書かれていた。最後の一文が4月30日の年号の変わった瞬間だった。「平成から令和へ、ちょっとした年越しのような気持ちだったが、一瞬でいつもの日常に戻った。」この一文を読んだとき思わず涙が出そうになった。スーパーからの帰り道、ふとこの先のこと、仕事のこと、お金のこと、本当は何が不安なのかと考えたとき、日常がなくなったことが不安なのだと気付いた。今でも自分にできることは小さなことで今やってるお届けものだって本当に必要かと言われると不要なのかもしれない。それでも時間は経ち、日々は続く。改めてそう思うことができ、この日々を忘れないようにしようと思った。

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次の仕事が決まっても出勤できないため毎日を家で過ごしている。今までの生活があまりにもひどいものだったから、自炊したり、掃除したりしてる今の生活の方が日常に近いのかもしれない。

でもほんとうにそれが私の日常なのだろうかと考えるとやはり違うと気付く。小さい頃は家の中で過ごすことがとても好きだった。けれど自由を手に入れてから私は外の世界を知るようになって、いいことばかりではないけれど、それなりに楽しかった。なにより人に会うことができた。

今は誰にも会うことがない。元々あまり人には会わないけれど、誰かと一緒に食べるごはんがおいしいことを私は知っている。

少しずつ今の生活に慣れてまった自分が情けなく、明るいフリをしてた自分が本当は不安でいっぱいだったことに気付いて涙が出た。

先のことを考えると不安で押しつぶされそうになる。そして自分には何もないことに気付く。でも私よりつらい人はたくさんいるからこのくらいで弱音吐いちゃだめだと自分に言い聞かせる。

ベランダで冬に植えた球根が芽を出してきれいな花を咲かせてる。あの頃はこんな春が来るなんて思ってなかった。どんなにつらいことが続いても花は咲き、そしていつかは枯れてしまう。どんなにかなしいことがあっても時間は経ち、新しい季節は来る。

いつも失ってから大切なものに気付く。

だから私は何も守れない。