26
世間が不安定になっていても私は変わらず生活をしている。
やらなければいけないことがたくさんあるのに何もやる気が起きない。誰かに嫌味を言われたわけでも、失恋したわけでもない。
私は私でいれる場所をずっと探してきたけど、その場所はまだ見つかっていない。自分の居場所は自分で見つけると決めたのに私はどこに行きたいのか、どこに居たいのかわからない。指針は変わってないけれど、何を優先すべきかわからない。
過ぎてゆく日々の中で私は何もできてないし、何も残せていないと気付いたとしても何もできない。私はいつもそうだ。
25
昔好きだった人のことを忘れてしまいそうになったことをきっかけに、15歳の時に日記を書くようになった。この日の出来事を気持ちを忘れないようにと毎日ではなかったけれど、何かあれば必ず書くようにしていた。
今でも日記を書いていた10代の頃の記憶は本当に鮮明で、昨日のことよりも覚えている。
それなのに20歳になってからはほとんど日記を書かなくなった。そのせいかその辺りの記憶はほとんどない。ちょうど20歳頃から働くようになり、遊ぶことも誰かに会うことも少なくなり、毎日が苦痛でしかなかった。何も覚えていたくないと思ってたら、何も書く気にはなれず、時間が経てば忘れるようになっていた。
今の自分を作ってるのは何だろうなんてあまり考えたことはなかったけれど、間違いなく過去の記憶はあると思った。でも忘れてしまった記憶はどこにいくんだろう。私に成れなかった記憶、消した記憶はと考えても答えは見つからない。
でも私を成してるのは記憶だけではないかもしれない。そう気付いた。毎日の生活、繰り返す日々の中に思いがあることを。その思いが私を成している。そう思えたら少し安堵したのか、泣きそうになった。たとえ忘れてしまっても、一瞬でも思い出すことがある。あの日の月が綺麗だったことを、私は昨日のことよりも鮮明に思い出す。
24
つらいことがあったら笑うというのはいつから身についたのかわからないほど、ずっとそうしてきた。
小さい頃に家の中が怖くて仕方ないとき、たくさん泣いたこともあった。けれど誰も助けてくれないし、自分で変えることもできなかった。
そんな幼少期を過ごしたせいか、私は誰かが怒られてたり、喧嘩して言い争いになってる姿を見ることができない。たとえ自分に関係のない人であっても怖くて仕方ない。
小学生の頃、友達同士が絶交の話をしてるときも、とにかく怖くて、なんとかこの状況を変えたくて何かできることはと思った私は笑ってみせた。が逆効果だった。ふざけないでと怒られてしまった。
その後も笑うという行為はとても友好的な関係を築くために何度も使った。おかげで笑い方もうまくなったけれど、笑った顔を褒められたことは一度もなかった。
相槌なんかもうまくなってきて、元々怒ることも好きではなかったので、にこにこ笑ってみせて日々を過ごしていた。
でもふとした時に、全く笑えなくなってしまう。何も考えることができず、ただぼんやりどこか遠くを見てる姿を見られたときは大丈夫?と心配された。
そしていつのまにか何人もの自分ができあがった。そこに本当の自分はいなかった。
私は誰なんだろうと何度も思う。きのうの自分はどこにもいなくて、今日の自分も誰なのかわからない。笑っているのは誰なんだろう。
23
映画自体はあまり観る方ではないが、好きな映画はいくつある。なかでも一番はずっと変わらない。それが岩井俊二監督の「花とアリス」だ。
当時15歳の私はまだ家のパソコンがブラウン管のように大きかった頃に花とアリスに出会った。
元々はキットカットのCMを見て知り、その続きを家のパソコンでキットカットのHPから観たのが最初だった。当時はちょうど高校に入学したタイミングでもあった。
特に好きだったシーンが花が先輩を好きだと自覚して思わず走って帰るシーンだった。本当に花と同じくらいのタイミングで私はクラスメイトを好きになった。
その後、劇場映画になったものの私の住んでる町の映画館ではもちろん上映されることはなく、観たのはDVDが出てからであり、さらに言えば当時お金がなくてDVDが買えるわけもなく(そもそもDVDを観るデッキがなかったかもしれない、いやむしろVHSで観たのかもしれない…ここに関しては思い出せない) 貧乏性で新作で借りることもできず、ようやく観たのは18歳くらいと思われる。
花とアリスのどこがいいかと聞かれたら、映像美はもちろんキャストの自然な演技や空気感、音楽、全てにおいて好きと言える。
でも一番だと言える理由は何度観ても何度もはじめての感覚で観れるところにある。決して内容を忘れてるわけではなくて、いつでもはじめて観た15歳に戻れるという感覚に近い。大人になったら見方が変わる映画もあるけれど、この映画だけはそれがない。自分の心の一番深いところにずっと残ってる、上書きされることもなく、書き換えられることもなく、ずっとあるもの、それが花とアリスだった。
それから少しずつ岩井俊二監督の作品を少しずつ観るようになった。特にスワロウテイル、リリイ・シュシュのすべてを10代の頃に観た影響はとても大きかった。私が10代の頃はSNSも今ほど発展もしておらず、岩井俊二監督に関しては自分で見つけて、自分で観るようになった。
写真をはじめた頃、有名な写真家すら知らなかったけれど、心の底に花とアリスをずっと大切にしまって生きていた。それが私の撮りたい世界であり、目指したい世界だったかもしれないと今になって思う。
22
私に写真を教えてくれたのは有名な写真家やカメラマンやSNSでもなくて、宮﨑あおいさんです。
彼女の立ち振る舞いや演技はもちろん、ありのままの生き方がとても好きで、彼女がフィルムにこだわって写真を撮ってるのを知りました。
18歳のクリスマスが近くなった頃、地元の雑貨屋さんでプラスチックでできたカメラを見つけました。調べてみるとそれはトイカメラといっておもちゃのようなカメラで、使用するのはフィルムでした。
当時宮﨑あおいさんがCMしてるOLYMPUSのデジタルカメラが気になっていて、それを買おうかとも悩んでいたのですが、私にとってそれはとても高価なものでした。当時アルバイトはしてましたが、給料のほとんどは学校への定期代と教習所へ通うお金を貯めていたので、自分に使うことはありませんでした。
その時はトイカメラの値段ならなんとか出せるものの、初めて見るものだし、使い方もわからない。何度も迷っては、調べたり、悩んだりしましたが、クリスマスが近づいた頃ついに決意し自分へのプレゼントに買うことを決めました。
トイカメラを買ってから、説明書を見てまずフィルムがないといけないと思い、町の写真屋さんに行きました。初めて入るお店だったけれど、いくつかフィルムが置いてましたが、どれを買えばいいのかが全くわかりませんでした。
120mmというのは覚えていたので、パッケージを何度も見比べて本当にこれでいいのかと不安になりながら購入しました。説明書を見てフィルムをなんとか装着し、一番最初に撮った写真は冬の葉の落ちた木でした。枝が細く絵のように繊細で綺麗に見えたのを覚えてます。それから春が近づいた頃に家の近くに咲いてた梅の花、河津桜、たんぽぽ、菜の花を撮りました。
初めて撮った写真はフィルムを買った写真屋さんで現像をお願いし、出来上がった写真を見たとき驚きました。
鮮やかな色がとても綺麗でこれが私の見た世界なのかと。なんでもないはずの風景があの時はとても特別なものに見えて、12枚全部を何度も見返しました。予想通りではなく、予想以上の仕上がりに私はうれしくなりました。
それからもどこか旅行に行くときは必ずカメラを持つようにしました。少しずつ新しいカメラを買っては風景や花を撮りました。
もちろんうまく撮れないときもあり、落ち込んだりもしました。どんどん上達するわけでもなく、最初の頃の方がうまく撮れてた写真もあります。
それでも私が写真をやめることはありませんでした。
東京に出てくると雑誌に載るような有名な写真屋さんで現像したり、またカメラを買ったりもしました。
当時はインスタもやってなかったので、誰かに写真を見せたことはありませんでした。
唯一見せたのは同じ職場で働いてた子でプリントした写真を見せると、「すごい!すごい!!」と何度も言ってくれました。ずっと私は誰にも見せることもなく撮っていたので、そんな風に言ってもらえた時はとてもうれしかったです。
それから妹がインスタでフィルム写真を載せてるというのを知り、写真屋さんでデータ化するか聞かれるのはこういうことなんだと知りました。それまでは現像とプリントしかしてませんでした。
写真を載せると知らない人からの反応がありました。そしてその頃から少しずつ妹の写真を撮るようにもなりました。
写真が楽しい時もありました。でもあることをきっかけに写真で生きていけたらと思うようになりました。それは写真が好きだからというより私には写真しかなかったというのが近いです。
でも私はいつも下から数えた方が早くて、いつも先を越されてしまって、いつも平気じゃないのに大丈夫と言ってしまって、いつも思ってもいない悪口を言って笑いをとろうとして、いつも嘘をつくときは笑ってみせて、いつも聞きたくないことは全部耳を塞いで、自分のことがどんどん嫌いになるし、自分の写真も好きにはなれなかった。
数年前は私にも夢があって、叶うことはなかったけれど、あの頃は楽しかった。夢を追いかける長い夢を見ていた気がする。
ある時その夢がなくなって、生きてきて一番泣いた日があって。普通ならそこで全部終わるはずだった夢をまたそこから始めました。
その一年後に妹と初めて展示をしました。決してたくさんの人ではなかったけれど、とても大切な時間を過ごせました。あれからもう随分と経つ中、妹から「またふたりで何かしたい」と言われ上京して10年が経つ2021年にもう一度ふたりでやろうと決めました。
不思議なことについ数日前にはじめて写真を褒めてくれた元職場の子から4年ぶりくらいに連絡がきて。「元気にしてる?」の後に「まだ写真続けてるのか聞きたくて」と言われ泣きそうになりながら「続けてるよ」と文字を打ちました。
続けるというのは決して簡単なことではなくて。それに私の写真はいつやめたって誰も困らないし、いつやめても問題はない。それでも私は写真を撮り続ける。意味なんてわからない。ただシャッターが押せるうちは私は私が見たものを残したい。
今も写真を撮る答えはわからないままだけど、写真を撮ってるときだけは私が私らしくいれる気がする。理由なんてなくて、答えはきっとわからなくていいのかもしれない。
21
師走なのに年末感がないまま日々を過ごしてる。
毎年あっという間と思うが、今年は少しだけ感覚が違う気がしている。
毎年何もないまま今年が終わると師走になるといつも焦るが今年は特に焦ることがない。
そう思うのは2月に個展をやったことが大きい。
もう随分と前のことのように思えて仕方ないが、まだ今年のことであった。
展示後の春は今までにないほど前向きに写真を撮っていた。5月くらいまでは誰かに会ったりもよくしていた。6月にはある決意をして、1ヶ月ほど作品作りに集中し、完成したポートフォリオを応募した。
7月、とてつもない哀しみと憎悪に押し潰されて何のために、誰のために祈りはあるんだろうと思った。何もできなかった、誰も救えないと思った。
それでも私に光が少しだけ見えて、その光は決して掴めないけれど、追いかけようと思った。
8月、ポートフォリオの審査結果が届く。落選だった。審査員コメントを読んでもうまく理解ができなかった。わかったことは私は自分の中で起きたことを写真にし、感傷に浸って、それで満足してしまったということだった。
実家に帰ったときに何度も帰ってきなさいという母に車の中で「写真を応募したんだけど、だめだった」と伝えた。すると母は「私は写真のことなんてよくわからないけれど、賞がとれなくてもいいんじゃないかな。なっちゃんの写真を好きだという人がいることが大事なんじゃないかな。」と言ってくれて思わず涙が出ないように堪えた。
9月、応援はあまりないけどがんばろうと思った。
それなのに何に向けてがんばればいいのかわからない。何を撮ればいいのかわからない。誰にも会いたくなくて、誰とも話したくなくて。
それでも毎日は続く。朝になっていつも何もできなかったと繰り返す。
楽しい日々が永遠に続けばいいのにと思う。ずっと生きていてくれたらと思う。誰も死ななかったらと思う。誰も哀しい思いをしなければと思う。
でもそれは不可能だ。人の命は永遠ではない。
それなら人の思いなら永遠にすることができるのではないか。誰かに託すことは思いをつなげることはできるのではないか。
その姿は花に似ていた。枯れてしまってもその思いはきっと未来に届く。つながる思いがある。
どうか私の思いが花となって永遠になるように。
小さな祈りを込めて。